吉見俊哉『さらば東大』

吉見俊哉『さらば東大 越境する知識人の半世紀』を読んだ。

特に、大学論に関する章が興味深かった。「移動の自由」を前提として、移動・越境する知識人の交流からなるユニヴァーシティ(幕末期の私塾などもこれに対応)に対して、日本のそれは「国民国家の研究教育機関としての大学」に留まったとされている。「日本の大学がユニヴァーシティではなかった」という前提に立って、日本の大学が欠いている自治や自由、それ故の問題点について吉見は論じる。

「移動する自由」が個人と組織にもたらす好影響について、自分はその恩恵に最も預かった人間の一人だと断言出来る。自分が行きたい場所に行って会いたい人と会って、なおかつ研究者として収入と職が得られるのは、最高である。

その上で、これは完全なポジショントークなのだが、大学改革というものを内部の研究者・大学教員の質を変えずに実施することは可能なのか、疑問に思った。より辛辣に名指すなら、移動の自由に基づいた風通しの良い大学を作るのに、「移動出来ない・世界に開かれた業績を持たない・枠の外で通用しない研究者」を教育・研究の主戦力として抱え込んだ状態では無理はなかろうか。

日本の大学の専任ポストについている研究者のうち、どれだけが国際的に通用する研究成果を挙げて、日本国外の大学・研究機関に受け入れられる素地があるだろうか?

日本という枠内に固有の評価軸で互いに認知し合っているだけで、その外部に求められるものも、興味を持たれるものもさして生み出していないのが現状ではなかろうか?

そこから始めて、『ユニヴァーシティ』など作れるのだろうか。

誤解して欲しくないが、自分はそれが悪いとも不甲斐ないとも全く思っていない。

自分は移動の自由が最高だと体感しているし、そうした大学を選んだが、むしろ国民国家の枠組みの中でその内部の構成員に寄与することを至上命題とする明治期以来の大学像を貫くのも全然アリではないかと思っている。少なくとも、既存の文化や構成員を『総とっかえ』するような痛みは伴わないであろうし、日本の国家と社会に徹底して向き合うのも潔く、好ましい態度である。

重ねて言うが、自分はどちらが良いとも悪いとも言うつもりも、まして日本がどちらを目指すべきだと言うつもりは全くない。根無草に定見などないのだ。