授業期間と研究

今学期最後の講義とチュートリアル(個別指導)を終えた。これで今学期の大学教員としての勤めは果たしたことになる。*1受け持ったのは、大学院二年生向けの修論執筆指導・研究方法論(6週間)と、大学院一年生向けのメディア文化政策概論(13週間)の2コマで、いずれも講義・セミナー・チュートリアルの組み合わせからなるため、なかなかに骨が折れる仕事だった。

 

個人的に印象的というか、記録に残しておきたいと思ったのは、授業期間中はとにかく研究が捗ったことである。

 第一に、授業期間中はとにかく文献を読んだ。自分はこれまで最も論文・研究書を読んだのは博士論文のためのliterature reviewをしていたときだったが、この数ヶ月はそれに比肩するほどの密度と精度で論文を読みまくった。メディア文化政策概論の講義では、60分一単位の小講義を行うのだが、その準備のために毎回論文20本、研究書3冊を目処に読み返したり新たに読み通したりした。その内容を講義スライドに落とし込んでいく過程で、文化政策の研究者としての基礎体力を培うことができたと自負している。実際にこの文献読み直しのなかでまとまった着想や原稿は、現在投稿中の論文にも複数取り入れられている。*2

 第二に、授業期間中はなんだかんだ執筆が捗った。授業や会議が終わって疲れ切った後も帰宅と同時にコーヒーのデリバリー(中国ではめちゃくちゃ安い)を注文し、10時から新しい論文を書き始めたことがしばしばあり、それらの原稿は今、フィールドトップ誌で査読に回っている。あの切実な書き進め方は我ながらなんだったのだろうか。

 思うに大学教員生活が始まって、「研究者としての自負・誇り・アイデンティティ」のようなものが、教務・学務に忙殺されるなかで徐々に蝕まれていたのがこの数ヶ月で、そのことに対する危機感や反発が自分の研究を推し進める原動力、意地になったのかもしれない。

 そんなわけで、今学期の成果は2本の新規論文(under review)および1本のbook chapterとなった。博士論文をもとにした別の論文2本は現在revise & resubmitの段階であり、そちらの修正も進めた。

 誤解して欲しくないのだが、自分は「教育と研究とが好循環を及ぼしうる」といった一般論を支持するつもりは全くない。むしろ大抵の場合は、教務は研究に不可欠な「主題への没頭」の妨げだし、研究者養成のトップ校を除いて研究と教育が容易に繋げてしまうと、研究として程度が低いか教育として偏狭すぎるかどちらかに陥ると思っている。自分の場合、担当講義が大学院レベルで自分の専門そのもの(文化政策、メディア政策)であり、なおかつ研究分野としても細切れな調査や小さなテーマでの論文化が可能な領域であったことが今回の進捗に繋がっただけである。

 不思議なのは、学期期間中はまさしく寸暇を惜しんで、疲れた身体に鞭打ちながら研究を進めていたのに、こうして授業期間が終わって研究に専念できる休暇に入ったら、なんとなく腰が定まらず、こんなブログ記事を書いてだらだらと過ごしていることだ。我ながら何故こんなに休暇中にはやる気が出ないのか。不甲斐ないが仕方ない。

*1:厳密には先学期(2−5月)にも授業自体はリモートで受け持っていたのだが、現地渡航が叶い実際に学生や同僚と顔を合わせるようになった今学期から正式に大学教員としての生活を始めた心持ちである。

*2:今回作成した小講義のテーマは、

「イギリス文化政策概論」「クリエイティブ産業概論」「文化経済思想」「文化の効用、文化有概論」「文化の民主化」「文化価値論」「ステークホルダー分析」「比較文化政策」「日本の文化政策」「中国の文化政策」「韓国の文化政策」「博物館研究入門」「国際機関と文化政策」「地域振興と文化政策」「知的財産と政策」「カナダの文化政策」「オーストラリアの文化政策」「シンガポール文化政策」「文化政策とコロナ危機」