壁はどこにある?

英語圏で研究をする、論文を書く。英語で書いても採択されない、数が増えない、質も伴わない。何故なのか?

資料へのアクセスを含む「研究対象との距離」が障壁として挙げられることが多い。正しいが、それだけではないと思う。新規性のある材料を集めることそれ自体は気の利いた修士院生くらいでもできる。それでも論文は通っていない。掲載に値する意義・価値が認められない。

最近個人的には、先行研究の読み込み、文献収集が絶対的に足りていないのが敗因ではないかと感じてる。査読をしていて顕著に感じることとして、母国から投稿されたと推察される論文はliterature reviewが貧弱なことが多く、面白い事例を持ってきても、位置付けや貢献が不明瞭で、独りよがりな議論になっていることが多い。

他人事のように書いているが、自分だって新しいテーマで論文を書くとそうなりがちで、先行研究整理の浅さを査読で指摘されて落とされることがしばしばある。

先行研究が読めていない背景には、英語が非母語であることから読解が遅いという文化的・構造的な不利もあろう。ただ、これはある程度力量のある人なら克服しているとも感じる。

より直接的かつ絶望的な理由としては、所属大学が契約している文献データベースが貧弱という問題もあろう。国際査読誌の個別論文を研究費で購入しているという話も聞いたことがある。

書籍がメインの研究分野ならまだしも、論文を浴びるように読んでなんぼ、という研究分野ではこれでは話にならないし、目も当てられないliterature reviewが出てくるのも仕方ないと思う。

繰り返すが、これは個人の勉強不足などではなく環境的・構造的な問題なので、自分がそうした立場にあったら、「国際査読誌を目指す」という競争から降りると思う。