『アオアシ』と「死ぬほど」

「考えるフットボール」でお馴染み、『アオアシ』を最新話まで読んでいた。

作中において、国内クラブのトップレベルで40歳まで現役を続けている選手、司馬明考に関する印象的なシーンがある。

彼がいかにプロ入りしてキャリアを築いてきたか回想する際に、身体能力に恵まれない司馬が

自分は「死ぬほど」プロになりたい

死ぬくらいならどんな辛さにも耐えられるはずだと、考え抜くプレイスタイルを確立していく過程である(単行本30巻)

 

 



自分を鼓舞するために、あえて「死ぬほど」という常套句を字面通りに捉えようとする司馬の奮起も感動的なのだが、自分は作中の描写とはもう少し別の可能性も考えていた。

 

 

死ぬほど焦がれるものが得られなければ、少なくとも人は変わるし、それはある意味で死と同じだと思う。

 

自分の場合、パートナーと一緒になるために「英国か中国のいずれかで大学教員になる」のが「死ぬほど」叶えたい目標だったが、それが実現しなければ、客観的な境遇のみならず内面的にも大きく変わっていたと思う。

もしかすると、その自分はもっと謙虚で温和で友好的な、今よりも上等な人間になっていたかもしれないが、攻撃的で傲慢で勝ち抜けることばかり考えている自分が生き残った。

「俺は夢を叶えたぞ、ドヤ」という話ではなく、そろそろ上記の意味でなら死んでもいいかな、と思えてきたのである。つまり、実現しなければ人格が変わるほどの強度で目指したい目標を追うかどうか迷っている。今の自分がそこまで好きなわけでもないし。

 

余談だが、司馬の偉大さについての表現として「全盛期に、海外に行けたのに行かなかった一流」、それゆえに、競技と観客のレベルを引き上げ、Jリーグを急速に発展させた存在と言われている。

自分の傲慢さを反省した。