素敵なブログ

ソウルからマンチェスターにかけて社会学を教えておられるYuki Asahina先生のブログ記事が大変良かった。

http://blog.yukiasa.com/2024/08/blog-post.html?m=1

 

韓国の所属先を振り返られているのだが、外国人教員として東アジアの国際性が高い大学院に所属する身として、共感するところが非常に多かった。

事務仕事を免除された独特な職場環境やそれゆえの時間に余裕がある研究環境が博士号取得後の若手研究者としては本当にありがたい。とてもよくわかる。

そして、学生との交流は楽しい。とてもよくわかる。

何よりも、先生は米国にいても韓国にいても英国にいても生活を楽しんでいらっしゃる様子が伝わってきて、本当に素敵だと思う。見習わなければ。

俺も今の環境に4年間はゆったりと過ごして楽しみ尽くしたい気もしてきた。

何も焦ることはない。

2025年1月

今回の年末年始は日本に帰国する予定はなかったのだが、ふと思い立って航空券を探したら、大晦日のそれが一万円を割っていたので思わず購入。

家族の顔を見れるのが良い。日中は近い。

スパやサウナを巡りながら論文を書いているのだが早速一本書き上がった。環境を変えると筆債の返済が捗る。実家の自室には縦長のモニターがあり、そちらも活躍してくれた。

今回書き上げた論文は、前学期に学生と話していて思い浮かんだテーマで、アンケートを取ってみたところ示唆的な結果が出たので一気に書き上げて投稿した。

literature reviewを書くのが大変であったが、今後も同じテーマで掘り下げたいと思っているので無駄な経験ではないと思う。

そして、1月いっぱい、さらに中国の旧正月は授業も会議もない、いわゆる「休養期間」であるため、まだまだ研究を進めることができる。

現職は12−1月およ6−8月がこうした授業・学務免除シーズンであり(給料は出る)、一年の実に5ヶ月は研究専念期間がある。これで結果を出せなければ恥ずかしい。

あー、楽しい!!

勉強が楽しい

年末年始、今年は日本に帰国する予定はないので、自分のペースで勉強を楽しんでいる(実家に帰るとつい怠けてしまう)

中国語を1日10時間勉強する縛りで数日間勉強してみたところ、脳が絞られるような感覚になりとても楽しかった。自分は語学習得が本当に苦手で、自分にできないことをできる人を尊敬する。

研究については、今後の種になるかもしれない研究について調査ノートを取り始めた。資料を読んで、気になったところをメモして、自分の考察も作文にしていく。Scrivenerにまとめたこれらの文章がすぐに論文に繋がるわけではないが、メモ作成自体は研究で一番気楽で楽しい工程だとも感じる。

ChatGPT o1 Proも当然使っている。RAとして非常に優秀で、研究費で雇っている人間のRAには別の角度からの、もしくはもう一段階深掘りした作業を振ることが出来そうだと感じている。たとえばChatGPTが提案した情報源について、中国人RAに中華圏SNSでの反響調査を頼んだり。ChatGPTだけだと、中国語の情報源がやや浅いかなと感じるため。

心穏やかに研究できる時間が大変尊い。下の画像は『これ描いて死ね』4巻のp.200より。

いわゆる「プロ・アマ」「師弟」問題に「どっちでもいい」という視点を提示しており、大変良い漫画である。

 

2024年、研究者として

今年一年を振り返って良かったことは、「自分はいかなる研究者であり、自分の研究に通底するテーマは何か」について心から得心のいく答えを得られたことである。

大袈裟に言えば、その道を進むことには揺るぎない意義があり、そこで新しい研究成果を生み出せるならば、自分という人間が存在した意義がある。そんなテーマだ。

手癖で業績を増やすのではなく、こうした考えを深められたのは、各種の『競争』の機会に恵まれたからであろう。ストレスに自分を晒すことは大事だ。

その上で、今年の業績を細々と振り返ると…

メディア研究のトップジャーナルから単著論文が一本。共著で書いた研究報告書が二本刊行された。またブックチャプターも一本。

現在査読に回った論文からR&Rが二本出て、一本は投げ返したところ。

研究領域で最重要の国際学会で大活躍とネットワーキングが出来た。博士院生の指導も軌道に乗ってきた。学生との共著が来年開催の国際学会に複数採択されたのも良い。

やはり、何よりも嬉しいのは、冒頭に述べたように、諸々の成果に通底する目的意識を自分の中で掴めたことだ。

こうして書き上げると「収穫期」に入った感はあり、新しい種を蒔くのが今こそ大事だろう。

キャリアの悩み

現在の職場(英大学の中国キャンパス)に着任して三学期が経過した。大変恵まれた環境で何一つ不満はないのだが、漠然と「過酷な英国で勝負してみたい」という気持ちがあった。

そのためやっつけ仕事の公募書類などは出してみるのだが、実際に面接によばれてみると力を出し切れず、勝率も振るわない。

これに関しては数年前の自分の見立てが間違っており、劣悪な待遇でも「現地」に石に齧り付いてでも残った方が英国での採用の見込みは高かったように周囲を見ていて思う。

 

その一方で、英国を目指すことそのものにも迷いが生じてきている。20年英国の大学に勤めたスコットランド人の同僚が「今、英大学で就職するやつは正気じゃない」と言い切っており、内実を聞かされると確かにと思わされる。特に、持っていかれる税金が大きく額面だけ見て待遇を論じることはできないと言われ、その通りだな、と。

また、英国の大学で10年以上勤務していたメンターからも「英国の大学いても毎日退屈だったよ。日々の知的刺激なんて、君が夢見ているほどないよ」と言われたのも、個人的には考えされられた。

 

何より、大学院だけ担当し、教育日が週一日の今の環境を手放されるのか、寝室が三つあるタワマンに暮らしながら、五つ星ホテルで気分転換のワーケーションをしつつ、純資産が毎年500万円増えていく待遇に何の不満があるのか。客観的に比較するならば渡英を目指すのは狂気の沙汰と言えよう。

だが、英国で「刺激」を受け、「挑戦」し、「成長」したいという漠然とした憧れは未だ自分の中に残っているし、面接に呼ばれるたびにその可能性は考えてしまう。

 

それでも、今の恵まれた環境で自分の研究者としての新しいアイデンティティとそれを裏付ける業績が作り出されており、あと数年はこれらを強固なものにするために費やしたいという思いもある。

 

英国に向かったはいいが、収入や職場環境が原因で研究者として突き進むためのmomentumが失われたら、本末転倒ではないか。

 

悩む。

 

自分は今の環境にいて行う研究と育てる学生に、学術的な意味のみならず社会的・政治的な意味でも非常に意義があると考えており、今はこれを完遂して、自分のlegacyを作り上げることが先決だと思う。

一言で表すならそれは、文化政策・文化産業分野における「方法論としての国際比較と知の脱植民地化」ということになろう。生涯かけて取り組むに値するプロジェクトだ。

もう一戦

ロンドン大学テニュアポストの面接に呼ばれた。来月にサクッとオンラインでプレゼンとインタビュー。

準備期間も短いし出来公募か噛ませ枠という気配を感じるが、場慣れする機会として活用する。

打席に立てることはありがたいし、書類選考に通るということはある種の強さだ。

怠惰な大学教員

とうとう今学期の授業が週一コマ(といっても2時間の講義と3時間のセミナーだが)にまで減ってしまった。これらは全て同じ曜日に開催されるので、職場に物理的に拘束されるのも週一日のみとなっている。

これによって、何が生じたか。とにかく暇なので論文と研究書を大量に読んでいる。ついでに映画とドラマを配信で大量に観ている。それでも時間を持て余すので、論文を新しく書いては投稿している。

その成果として、フィールドトップ誌から2本、R&Rが出ている。

こうした積み重ねによって地力を蓄えているような手応えがあるが、これもひとえに大学教員として勤勉とは言えない働き方をしているからであろう。

来るべき大勝負で突き抜けるためにも今はこうして溜めを作っておくことだ。